Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

da

あの日いなくなった私へ

マスメディアとその影

彼女はみずからの身体を 
数知れない他の者たちに惜しげもなくさらけ出し 
切り売りしているように見える

だが
彼女はその身体を
みずからの手の届かないところに投げ与えることで
捨て去ってしまうのではなく
むしろ数知れない他の者たちを介して
取り戻しているようにも見える

それこそが
若き日の彼女にはできなかったことなのだろう
それは
彼女が生身の身体を生きながら
それを見る者たちが
彼女にとって匿名であり続けるメディアを介してしか
彼女がなし得なかったことだ

それは彼女にとって
なにかの終わりなのか?
それとも──

なにかが終わったあとの静けさを包み込んだ喧噪のなかで
ひとり街を歩きながら
ひょっとして誰かに出会うのではないかと予感した
そのあとで
誰にも会わずに
誰も待つことのない部屋で
いま
彼女は
かつてないほどなにかを待ち受けている

いつか感じた薄明の大気の冷たさが
ゆっくりと街路を這いながら
部屋の窓を通りぬける

もう思い出されることはない幾つかの記憶が剥がれ落ち
かき消されながら
彼女の身体のどこかに
降り積もっていくそのなかで



占領の二つの時

この国に敗戦が迫っていたあのとき 
地上軍の上陸後に首都東京が戦場となってしまえば
この国はそのことによって二つに分断され
そのとき愛する者たちが東京を挟んで分かれて住んでいたなら
それ以後二度と生きて会えなくなると思われた

半永久的な別れの予感が切迫していた
だがそれは
予感という言葉をはるかに超えでた
圧倒的な
いてもたってもいられないほどの力だった

東京というこの国の中心が地上戦に巻き込まれることで
東からそこを通りぬけて西のエリアへとたどり着くことも
西からそこを通りぬけて東のエリアへとたどり着くことも
いずれも不可能となり
そこを通過する以前に
あるいはそこを通過するさなかで
例外なく殺されるか
力尽きて死んでしまうに違いないと思われたのだった

あの日すでに一度焼き尽くされた東京という巨大なエリアは
そこで地上戦を経ることなく占領された
だが
その後東京へとたどり着きそこを通過することが
人々にただちに死をもたらすことはなかった
──この国は致命的な分断を免れたのだろうか?

そのとき「戦争は終わった」のかもしれない
しかしそれ以後の時の流れのなかで
殲滅された集団は数知れない

人々は生きていた
そのあとも

一見減速されたように見えるが
確実な死へと誘導する時の流れが
かつての東京というエリアによる分断の予感を
場所のない世界を占領しながら
いたるところで実現している



出来事から遠く離れて(2013/09/24-10/01)

いつもの白紙の舞台で 詩の限界に挑む身振りを気取った彼が やがてどこかの街角で運命のように消えていく言葉を残す 彼が名指すことのできなかった 彼がそこで滅びゆくありふれた季節のなかで

彼はもう長らくそういった身振りを人前で繰り返しては新たな歴史を作っていたつもりだったのだが 彼の言葉は 今や隠れようもなく出来事から遠く離れた あのroutine workの反復のなかへと消えていった 

いずれにしても もともと彼に大した傷はなかったのだから routine workの継続にもさほどの支障はなかったはずだ 

以上は もうおそらくは誰も思い出そうとはしない現実 を描いたかのような 架空の物語の一幕に過ぎない



確率統計的な世界の死の終焉に(2013/10/01-10/03)

世界中枢国家の財政が最終的に破綻し それと連動したテロリズムが現実の出来事のただなかで再定義される それはもはや世界の再定義をもたらすことはない不発のテロリズムだ 誰一人過去の眼で見ることのできない境界域で 世界戦略のヘゲモニーがリセットされた

そのとき 再定義されたはずのテロリズムがかつての確率統計的な相貌を取り戻したかに見えた 確率統計的な世界 それは現在の私たちの眼から見てすでに古典的な世界なのだが その古典的ないつもの世界のなかで 世界の確率統計的な死が再び終わりなき死のプロセスを生きていくように見えた 

だがその計算機上を走る死は終焉した 計算が量子レベルであろうと古典レベルであろうと違いはない もはや倦怠のあまり誰一人生きることのできなくなったかつての日々のささやかな夢と幻想のなかで ──いかにもそれは見飽きたものだ これまで理由もなく掛け捨ててきた 国家と世界戦略と私たちという保険商品のように 





あの日いなくなった私へ

あの日いなくなった君が
いつかどこかの街路で歌った
最初は一人で
そしてそのあとで一度立ち止まった
振り返り
何人かの君が歌っているのを見ると
時の流れの渦のなかへと片足を浸した
そのときから
その水の感触が忘れられない
苦痛でもなく
悲しみでもなく
ただそこにある疲労でもなく──
ただ君が
何人かの別の君たちと歌うのを感じた
沈黙のなかで

あの日いなくなった君が
いつかどこかの街路で出会ったのは
あの日いなくなった私だ

今私は
あの日いなくなった私に向かって歌を歌う
いつかどこかの街路を歩いていたあの頃を
この身体のなかで感じながら


時でも場所でもないいつかどこかの身体に

泳ぐときには
とりわけ嵐のなかで泳ぐときには
一緒に泳がないと
泳ぐのを学ぶときには
とりわけ嵐のなかで泳ぐことを学ぶときには
二人一緒に泳がないと二人とも溺れてしまう
つまり泳ぐというその世界は沈没する
それがこの私の投げ出されたこの世界から私が学んだことだ
その学びの時と場所では この身体が苦し紛れに踊り出して
いままで見たこともない姿に捻じれ 押さえつけられるのをなんとか跳ね除けて
瞬時に逃げ切ったかと思えばまた捕獲されて戻ってくる
苦痛を感じる暇すらない場所でそれを果てしもなく繰り返す
だからその身体が生息する今この時空は
もはやいつでもどこでもない
いつかどこかの身体としか言えないなにかだ
そう 時でも場所でもない いつかどこかの身体に僕はさらわれて
死につつ同時に生き延びることで もはやこの身体しか生息しえない
この時でもこの場所でもないいつかどこかのこの身体との
別れの時と場所に出会うだろう


母の身体の傍らで新しい時が流れる

身体の力が次第に衰微していくのを感じる母親の眠りの訪れは 以前とは異なって その始まりが定かではなく 始まりと終わりの区別も失われ 目覚めの時と眠りの時との違いがよくわからない いつしかベッドに横たわり眠りについていくその時間は いつまでも引き伸ばされ 静かに流れる大気のように持続している いまこのとき 母は眠りについているのだろうか?
日々の生活のあれこれの出来事 とくに自分自身の行為であるはすのこと これらのことが現実なのか幻なのかよくわからなくなった それが母の口癖になった 私たちの眼には 自身の記憶が現実と幻のどちらなのかとこだわるそのことが さほどの精神の混乱とは見えなかったのだが 彼女はその身体で現実と幻との曖昧な混合を経験しているのだろうか? むしろ 彼女の記憶は鮮明なのではないのか? 彼女が最も情熱を傾けて 驚異的な記憶力がほとばしるままにエッセイを書き続けていたあの頃のように 確かに私はこのことを経験しているという その鮮明な経験を彼女は問い詰めているのだ かつての脳の働きの体感を追い求めながら
母は昨日久しぶりに孫たちに会って楽しそうだった 唐突に歌も歌ったくらいだ 私は 彼女がエッセイに書き留めたその歌を母が歌うのを初めて聞いた 母が老いてからは歌声の記憶はほとんどなかったのだが その歌はとても悲しいものだった それ以上に悲しい歌は思いつけないほどに 以下がその歌詞だ

「母ちゃんご覧よ、向こうから、父ちゃんによく似た小父さんが、たくさん、たくさん歩いてる。若しや、坊やの父ちゃんが、帰って来たのじゃあるまいか。よってば、よってば、よう、母ちゃん」
「また、母ちゃんを泣かせるの。父ちゃんはね、ようお聞き。今度の旅順の戦いに、名誉の戦死を遂げられて、今じゃ、あのような仏壇に、位牌とおなりになったのよ」
「だって座敷のお位牌は、何にも物を言わないで、坊やを抱いてもくれないの。本当坊やの父ちゃんを、連れて帰ってちょうだいな……」

この子どもにはわかっている 何にも物を言わないで 坊やを抱いてもくれない座敷の位牌は本当坊やの父ちゃんではないことが そして母もその子どもと母親の気持ちがよくわかっていた 私はそう感じるほかなかった それほどまでに もういつの日か思い出せない昔の歌声と比べるなら実にか細い母の歌声が 子どもとその母との悲しみを私たちが呼吸する大気に浸透させていた 母のその歌声は坊やの父ちゃんを希求するあの子どもの声そのものになったかのようだ
私たちのいる部屋に あの子どもの小さな魂と身体が渾然となった言葉が 母の身体から歌声となってあふれ出た 子どももうここにはいない そしてその母親も しかし二人は今ここに生きているかのようだった もはや失われた 母と子の歌の交換がそこで生まれたあの遠い日のように 


他の身体に

私が彼女の身体を見ることがないとき 彼女の身体が見えていると意識することがある いや 私が見るのでなければ それが見えていると意識することがあるとすらいえない そもそも見えていると意識することなどあるのだろうか? ただ見えているときには 意識することすらなく 彼女のその身体に気付くこともない そこにあるのは ただその身体と呼ばれるなにかだ だがそれがなになのか 私にはわからない 

ただ見えていることにいつも意識は遅れている だが 私はその意識にすらいつも遅れてやってくる 私はどこからきてどこへとやってくるのか? 私がその意識ではないのだとすれば どこからも到来せず またどこへもたどり着きそうにないそれは いや そのような問いはどこにも場所を持たない

身体はどこにも場所を持たない私という暗点のなかに横たわり 場所のないその暗点とともに溶融する そこで私は彼女を呼ぶ 私のものでもなく 彼女のものでもない 誰のものでもない身体のただなかで

私の身体が彼女の身体に触れようとしているとき 私はそのことにいつ気づくのだろうか 彼女の身体に触れるそのときだろうか? いや 私がそれに気づくことはないだろう

彼女の身体が私の身体に触れようとするとき 私がそれに気づくのはいつもすでに遅い いや 私はそれに気づくことはない 私と彼女の知らないある領域で それはすでに起こってしまっているのだから


これから永く続く母の身体との出会いに(2013/10/21-)

Introduction (2013/10/21-10/23)
母が横たわる病室で そのとき私は母を呼んだ 声となって発することのない声で それは母の名だったのか それとも いまだ言葉にならない声だったのか いや 今となってはそのどちらでもいい どちらであっても いまだ言葉にならない声であっても 私は母の名を呼んだに違いない いつも私は 母の名を呼んでいたのだ それが母に届いたのかどうか 母の心と身体に 私の指先が 眼差しが 母に触れるより前に 今になって私は知りたかった そのときではなくても ベッドに横たわった母の身体 瞳 唇 掌 髪 手足 そしてその皮膚──それらすべてで どこかに いや いたるところに母の応答はあった 私はそれを感じ取ればいいだけだったのだ たとえそのときではなくても 母は 静かに横たわっていた その身体を そのときまでは動かすことができなかったから 母の心が静まりかえっていたということではない ちょうど四年前に死別した夫がいないことの寂しさと悲しみで涙を溢れさせて泣いたり 泣きながらもこれが踏ん張りどころだからこれから気を強くして頑張ると言葉にしたりした 私はそれを感じ取ればいいだけだった そのときの私にとって 母の言葉と身体は 別のものではなかった そしてこの私の言葉と身体も 別のものではなかった 

01 (2013/10/28-11/01)

母の身体はとても小さくなった それはいつからだろうか もう思い出せない それとも 思い出せないほど昔というのではなく もしかするとそれは 今もすぐそこにある時の流れのなかの出来事だったのかもしれない あるいは 遠く過ぎ去った日々のことだったのか だがいつでもかまわない 小さくなった母の身体はなおいっそう私たちを揺り動かす

昨日母が入院して初めて 二人の姉たちとともに 母の車椅子を押して病棟の外に出た 病院の敷地の外れにあるあずまやまで 私は母の車椅子を押していった 母にとっては二週間ぶりに外の大気にその身体を委ねることのできたひとときだった 

あずまやに着くと 急に母は泣き出した 久しぶりに病棟の外に出ることができたことが それほど嬉しかったのだろう 私と姉たちはそう思った だがそのとき母の発した言葉は 私たちを驚かせた 

母はそのとき
「感動したの あなた達のその行為に」
と言ったのだった

この母の言葉が私たちをそれほどまでに揺り動かしたのは いったいなぜなのだろう

だが なぜかと問うても仕方がない ただ私たちは 母の身体がそこで私たちの身体と交錯する時の流れのただなかで その身体が全身でなにかを感じたそのときに発せられたこの言葉を 母の身体とともにやはり全身で感じただけだ 

02 (2013/11/05-11/07)

「よくもこれほどひどい骨折をしましたねえ」
大腿骨骨折から三週間近くたったとき ホチキス用のものを抜き取る抜鉤の際に主治医が母に言った言葉だ ばら撒かれた金属の砕片の痕跡のような痛みが母の身体のなかで持続していた

螺旋状に捻じれて骨が複雑に砕け折れる困難な骨折だったが 辛うじて治療不可能な状態にまで行き着かなかったのは不幸中の幸いだった

それがいつなのかはわからないが いつ頃かまでは このような場合なら手術は不可能でそのまま寝たきりになり 心身の機能は衰弱を続け 避けがたい死へと真っ直ぐに向かうほかなかっただろう なかなか動かすことができずに爛れ崩れていく皮膚と肉と骨の塊を祈りながら見守り続ける家族がいたとしても

毎日四回のリハビリで全身の力を振り絞り身体を動かすたびに 母の身体は内側から深い疲労の波に浸されていった リハビリを終えた後の疲れでどうしても眠りがちになり母は目を閉じる だが眠り過ぎれば心身の機能は解体と消失へと向かってしまう 

私と妻が病室に来たときに その気配を感じた母がその瞼を開き 私たちを見つめた まだ言葉のない束の間の その部屋の静けさに包みこまれた母の表情のわずかな動きが私たちをとらえ 微笑へとすばやく そしてゆるやかに移っていった

03 (2013/11/11-11/22)

縦横12×8全部で96文字書くことができる桝目の集合で構成されたノートの一頁を使って毎日決まった時間に何かを書くという生活リハビリを母がしていたのは昨日のことだった 私がそのノートに母が書くのを見るのは二度目だったのだが 母はその二日とも そして日付が書かれたノートの他の頁を見ると毎日ノートのほぼ一頁分を埋めていた 

母がそのリハビリを行うのは 片足で20秒立つことを三回行うといった 初めのころは母にとってはかなりつらい だが今はようやくそのつらさが和らいできたリハビリを終えたあとのことだった 

そのとき母が書いていた文章は かつて彼女が書いたエッセイの始まりの時における素朴な原石のようなものだった そこで繰り返されたのは母のエッセイで深く掘り下げられた父の思い出だ

父の思い出は 父がまだ若い頃 そして母がまだ若い娘の頃の「戦後、ようやく平和になったと思ったのも束の間、父はその年の秋、脳溢血で倒れ、わずか三日の後亡くなってしまった」(母のエッセイ「父」より)という消すことのできない出来事の周りを旋回し続けていた 

その出来事は事実として消すことができないばかりではなかった
それは そこを突き破ればもはや限界のない現実そのものしか待っていないような 消すことのできないなにかなのだった

その父の思い出が母の書く文字として刻まれるたびに母の眠りは妨げられた 
だが母の感情は凍り付いてはいなかった 反復する父の思い出を語るとき 母の眼からは涙が流れた

04 (2013/11/25-11/28)

また次の日に 私は母が言葉を発するリハビリを行うのを見た 私と話しているときの母は あまり聞こえない片方の耳のために時々私の声を聴き取ることができず会話が途切れることがあったのだが 言葉を発することにさほどの困難を感じてはいなかった 

ごく近くにいる私や姉たちや看護スタッフとの会話ができれば 片方の耳であまり聞くことができないということは母の心を煩わせることはなかった 私たちは静かに会話を楽しんだ 発声の際以前のように舌を造作なく使うことはできなかったが うまく舌を使って発声できないことは母の照れ笑いを誘い出した 

ふと気づくとそこに生まれていた母の笑いに 以前できていたことができないことが必ずしも母の気持ちを沈み込ませてはいないのを感じた 私は少し安心した 私は母の笑いに微笑みを返した そこに会話が生まれればそれでよかった 会話は 母と私の間 心と身体を一挙につなげる出来事の流れだ 一度生まれたその流れは いつかどこかの時と場所で いつまでもそしてどこまでも生き続けるだろう

04 (2013/12/4-12/30 )

今日 妻からこんなメールが来た 妻が出したのは朝だったが 忙しさに取り紛れて私がそれに気づいたのは午後になってからだった

「もう夕飯の支度とかあるけど大丈夫かしら、あまり遅くならないうちに。みたいなこと、ぜんぜん変な雰囲気ではなく、春ちゃん(私の母春榮のこと)から切り出して。はい、うんじゃあ。と、すぐタイミング逃さず。静かにそのまま帰ろうとしたら、手を握ろうとしたから、別に拒んだりしないで指握手してきたよ。多分、春ちゃん平気だと思うけど。生きててもお荷物になるのもやだから、死のうとしなくてもいいよ。と相手から言われるのも大事。というところが、ポイントなのかと思った。あまりポジティブすぎるのも、心理的に負担かと思ったんだけど。優しさ担当は、まもちゃんでいいよ。心配させてごめんね。」


附記 
母は、2013年10月14日に転倒し右大腿骨頚部外側骨折により入院し、翌1月11日の退院を目指して毎日四回のリハビリに励んでいる。現在母がかつての生活の場への復帰を目指してなんとか生き延びているのは、医療・看護・介護・福祉の専門スタッフの力によることはもちろんだが、二人の私の姉たち、呉 由記子と三世川裕子の身を削るような献身的な努力の賜物でもある。ここにあらためて、私の二人の姉たちに対する深甚の感謝を記しておきたい。


© Rakuten Group, Inc.